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民主主義とメタ認知

人生とは不思議なものである。子どもの頃は、大人になれば自由になれると思っていた。
学校を卒業し、親元を離れ、自分でお金を稼ぐようになれば、きっと好きなように生きられると思っていた。
しかし実際に大人になってみると、自由とは思った以上に難しいものであることに気付く

何を学ぶか、どこで働くか、誰と付き合うか、何にお金を使うか、どこに住むか、結婚するかしないか、子どもを持つか持たないか。

私たちは毎日のように選択を繰り返している。そして、その選択の結果を引き受けながら生きている。
自由とは選択権である。しかし同時に責任でもある。だから人生は苦しい。

昔の人々は王や権力者に支配されていた。
良くも悪くも、人生の大きな方向性は統治者によって決められていた。

しかし現代は違う、民主主義によって主権は国民へ移った。これは歴史上、とてつもなく大きな変化である。

私たちは自由を手に入れた。
だが、その代わりに一つの仕事を引き受けることにもなった。
それは「自分自身を統治すること」である。

ここで少し意外とも思えることがある。昔の王や皇帝には帝王学という教育が存在していた。
感情に支配されるな。
長期的に考えろ。
自分の判断を疑え。
忠告に耳を傾けろ。
歴史から学べ。
こうした教えは世界中の統治者教育に共通して見られるのである。

絶大な権力や富があるのになぜなのだろうか。
それは至って単純な話で、統治者の判断が国家や組織の運命を直接的に左右したからである。
怒りで判断すれば戦争が起きる。
慢心すれば国が衰退する。
欲望に支配されれば民が苦しみ反感を生む。
だから統治者には、自らを統治する能力が強く求められた。

ところが現代社会では、私たち一人ひとりが自分自身の統治者になったにもかかわらず、その教育はほとんど行われていない。 数学は教える。英語も教える。理科も社会も教える。しかし、「自分の感情とどう向き合うか」「自分の思い込みをどう修正するか」「自分の判断をどう検証するか」はほとんど教えられない。 これが現代社会の大きな見落としなのではないだろうか。

近年、「メタ認知」という言葉が注目されるようになった。簡単に言えば、自分自身を客観的に観察する能力のことである。
怒っている自分を観察する。
焦っている自分を観察する。
不安になっている自分を観察する。
結果を自ら分析する。
そして、「本当にこれでいいのだろうか」と立ち止まる。たったそれだけのことだが、実は非常に難しい。
なぜなら人間は、自分の誤りを認めることが苦手だからである。

感情に流される方が楽である、他人のせいにする方が楽である、現実から目を背ける方が楽である。しかし、その楽さは長く続かない。
問題の根源は残り続け、そして同じ失敗が繰り返される。そして人生の苦悩は少しずつ増幅していく。

もちろん人生から苦難を消すことはできない。病気もある、老いもある、死もある、自然災害もある、理不尽な出来事もある。 しかし、その一方で自分自身の認知や意思決定によって増幅される苦痛も確かに存在する。

もし自分の感情をもう少し客観視できていたなら、もし自分の思い込みを少し疑えていたなら、もし自分の判断を少し修正できていたなら、避けられた苦痛や苦悩もあったかもしれない。
メタ認知とは、自己啓発や処世術的な技術というよりも、不要な苦痛や苦悩を減らすための技術だと理解する事もできる。

人生は元々難しい。だからこそ、自分で避けられる苦痛くらいは減らしたい。

かつて帝王学は一部の王族や権力者だけに必要なものだったかもしれない。
しかし民主主義の時代において、私たちは一人一人が自らの人生の統治者である。
そうであるならば、自己統治のための教養もまた、すべての人に必要なのではないだろうか。
メタ認知とは、現代人のための帝王学なのかもしれない。そして、それを学ぶことは、自由を活かし余計な苦悩を避けるための技術なのかもしれません。

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